諏訪神社の歴史考察

残念ながら歴史研究の史料に耐えうる一次資料の古文書等がないので、あくまで考察です。

創建・設置・創立

 諏訪神社は、1585年(天正13年)に建てられている。

蜂須賀家政

 この1585年は豊臣秀吉が関白に任じられた年だ。また秀吉の四国侵攻があった年でもある。 旧暦7/25(新暦8/20)に四国統一していた長宗我部元親が降伏している。 秀吉に侵攻を命じられて家政は阿波の国に来た。  蜂須賀家政は、父に蜂須賀正勝を持つ戦国末期の武将だ。父親の正勝は蜂須賀小六とも呼ばれ、尾張の国、今の愛知県で川並衆という集団を率いていた。 その後、当時木下藤吉郎と呼ばれた後の豊臣秀吉の幕下に入り、木下→羽柴→豊臣と上司の出世とともに正勝は大名になる。秀吉は阿波を正勝に与えようとしたが老いていると辞退しの息子「家政」へ阿波を渡してくださいとお願いして蜂須賀家政が初代藩主になった。その家政が諏訪神社を設置した。  徳島城の裏鬼門を守る神社となっているが、実際に諏訪神社へ上がると山城の様相があり、徳島平野を見渡せる。どうかんがえても見張り台だったとしか思えない。
 

一国一城令

 また江戸期には一国一城令があり、阿波の国には徳島城以外つくったらあかんでーという状態だった。そこで、新規の城が造れなかったので神社という形で防衛のための支城として眉山山麓に諏訪神社を造ったのではないか。 有名な例では、宮城県宮城郡松島町にある瑞巌寺だ。伊達政宗が作ったが幕府からこれは城ではないか?と嫌疑をかけられたほどなので、実際は城として構想されたのだろう。 諏訪神社も急峻な地形でここに立て篭もられたらなかなか大変そうな造りだ。

神社の経営の変遷

 現在の諏訪神社の組織は、徳島市佐古地区の東側のエリア(厳密にきまっている)の住民が自動的に氏子になっている仕組み。町内会とほぼおなじエリアごとに総代がいて33エリアあり、総代も33人いる。総代で総代会を組織して、総代会長と副会長・会計・監事等がいる。これとは別に敬神会(けいしんかい)という組織がある。敬神会は勤労奉仕団で神社の維持管理を自分たちで行っている。掃除や木々の伐採・植樹などわかりやすく言うと公園管理にちかいものがある。 まとめると、諏訪神社の組織は、神社の運営は総代会、神社の維持管理支援として敬神会がある。

江戸期は同心長屋の佐古

 江戸時代の佐古地区の東側の地区は阿波藩の同心が住んでいた同心長屋がある同心街だった。神社の氏子となる地区と重なる。江戸時代の役職はうろ覚えだけれど、奉行→与力→同心という格付けだったとおもうので。同心は足軽のことなので、いざという時は佐古に住んでいる同心は諏訪神社に集合して徳島城の支城として機能する作戦だったのかもしれない。  こうかんがえると、江戸時代に諏訪神社が阿波藩からそれなりに遇されていたのも阿波藩の安全保障政策との関係からよくわかる。

明治期以降から令和の諏訪神社

 そんな諏訪神社も明治期を迎えると廃藩置県で阿波藩が徳島県となっていく過程で阿波藩という庇護者を失う。その後は、地元佐古地区東側に住んでいる住民が氏子として神社を支えて行ったのではないか。 明治以降終戦までは国家神道で神社庁が設置され国家祭祀を公的に行う部分もあったので、神社の活動に公的な後ろ盾があったことは否めないとおもう。  その後終戦を迎えてGHQが神道指令をだしたり、日本国憲法第20条で政教分離がうたわれたりして、公的な後ろ盾を失っていく。
現在でも諏訪神社の氏子組織は江戸の昔から続く町内会システムとエリアが重なっている。町内会を同じエリアに分かれていて、その中の住民からそのエリアの総代が選出される。エリアが33エリアあり1つ1つから総代が選出されている。総代が集まる会が総代会だ。おおよそ過去からは町内会長=総代としう仕組みのようだ。
 町内会という組織にもふれておくと、都市部の町内会は江戸時代には奉行所のお達しを末端まで伝える仕組みとして成立していた。諏訪神社が安土桃山時代の後期に成立したことを考えると諏訪神社の氏子が町内会とかぶっているのは、2023年の現在諏訪神社の氏子組織が438年前からそのまま続いている可能性高い証明ではないかとおもう。
 
以上、推測などを交えての考察です。